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中村一成(ジャーナリスト)

すべて人は、国籍をもつ権利を有する。

何人も、ほしいままにその国籍を奪われ、又はその国籍を変更する権利を否認されることはない。

(世界人権宣言15条)

ヴィシー政権によるユダヤ人迫害

侵略戦争への反省の産物が日本国憲法であるように、二度の世界戦争への反省から生まれたのが世界人権宣言であり、そこにおいて「権利としての国籍」が強調されたのは、世界史に刻まれたいくつもの悲惨な実例ゆえだ。そのひとつがナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人への迫害だった。

ナチス・ドイツに敗れたフランスに1940年、ペタン元帥をトップとした親ナチのヴィシー政権が誕生した。彼らは国民と非・国民を峻別し、後者に苛烈な政策を採ることで自らの求心力を増そうとした。その恰好のターゲットが当時フランス国内に約30万人いたユダヤ人、とりわけナチスの迫害を逃れ、ポーランドやハンガリーからフランスに移住したユダヤ人たちだった。

翌年5月以降、政権は警察官を動員してユダヤ人狩りを進め、彼彼女らを情け容赦なくポーランドやドイツの強制収容所に送った。その数、実に4年間で7万6000人。ヴィシー政権は、占領に便乗して国内の「異端」を一掃しようとしたのだ。最初の標的はフランス国籍をもたないユダヤ人だった。

ヴィシー政権が発足早々に行ったユダヤ人弾圧は、彼彼女らの「帰化」の再調査。その本当の目的はユダヤ人のフランス国籍剥奪である。結果、約6000人のユダヤ人がフランス国籍を無効とされた。「経過期間」、すなわち国籍を剥奪するまで身の処し方を考えるために与えられた猶予期間はわずか1カ月。その7年前に同様の措置をとったナチスですら、半年の経過期間を設けていた。そうして国籍を剥奪された者や外国籍のユダヤ人が二度と戻れぬ旅路につかされた。

人権という普遍的概念は、国籍を通した国家との紐帯があって初めて実効性をもつ。国民国家という統治形態においていずれの国籍も有しないということは、人権をもたないことを意味する(ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で展開した洞察は、残念ながらいまも問題の本質を衝く。結局、フランス国籍をもつユダヤ人も収容所送りとなるのだが、殺された三分の二は非・国民のユダヤ人だった。居住国の国民であることは決定的な身の安全につながるが、非・国民は違う。国民国家の暗部が、皮肉にも「人権」発祥の地で実証されたのだ。

絶対悪たるナチスと共同作戦を展開した事実は、フランスでは長くタブーだった。ジャック・シラク大統領(当時)が「フランスは助けを求める人を死刑執行人に引き渡した」と公式謝罪したのは1995年のことである。あまりに「軽い」文言だが、それでも「けじめ」をつけようとしたのだとはいえる(この「人権の祖国」の恥部は、タチアナ・ド・ロネのベストセラー小説を原作にしたフランス映画「サラの」〈ジル・パケ=ブレネール監督、2010年〉に描かれている)。その悲劇をふまえたからこそ世界人権宣言が採択された1948年、国連の経済社会理事会は、国連事務総長に対して、難民・無国籍者の状況調査を要請し、2年後には早くも条約が起草されたのである。

東京高裁511号法廷

「国際社会」が歴史的反省をふまえて「国籍をもつ権利」を宣言した4年後、日本では真逆の行為がなされた。日本の植民地支配で「皇国臣民」とされた朝鮮人や台湾人たちからの日本国籍「剥奪」だった。在日朝鮮人を事実上の無国籍状態にして人権の枠外に置き、その後の補償/保障から締め出していく「戦後」への地ならしだった。この「汚辱の歴史」を白日の下にさらそうという法廷闘争が、性人類学者キム・ミョンガンを原告とする「日本国籍確認訴訟」である。

2012年3月28日午後1時、東京高裁511号法廷。ずんぐりとした体躯をブルーのシャツに包んだ坊主頭の男性が開廷前の廷内を忙しく動きまわっていた。原告のキムである。15分後には、彼を原告とする日本国籍確認訴訟の判決が言い渡される。同じ時間帯で一気に言い渡される判決12件の最後だった。

東京地裁ではわずか3回の口頭弁論(すべて1分以内に終わった)しか開かれず、判決はキムの全面敗訴だった。今回は2回(それも1分以内)の弁論をへての判決だった。50席に満たない傍聴席を落ち着きなく歩きまわり、から身を乗り出して、書記官の机上に並べてある12件の事件の件名と番号を記した札を眺めている。支援者が入ってくると傍聴席の最前列に手招きし、机上の一覧を指さして「回転寿司みたいだよ」「どれでも好きなものをお取りください、って感じだね」と軽口をたたいて笑い、書記官に着席を促されたりする。

緊張しているのか、あるいは自分たちが「被告」であることへの想像力すらもたず、まともに弁論も開かずに「処理」しようとする判事たちへの怒りか、はたまたその両方なのか? 紅潮気味の丸顔にはひきつった笑みが張り付き、目つきは鋭かった。

異形/異端の系譜

「やっぱり戦後処理の原点を問いたかったんですよね。このままだと一世はみんな死んで、それを言える人がいなくなっちゃいますから」

判決の約2カ月前、東京都武蔵野市にあるキムの事務所を訪ねた。

キムは1950年11月、在日朝鮮人一世を両親に神戸で生まれた。京都で大学の非常勤講師をしていた1983年には指紋押捺拒否で全国22人の逮捕者の一人となり、刑事被告人にされた経験もある。1975年には「自分は住民なのか?」との公開質問状を京都市長に送っている。市民権や国籍に関する硬派な経歴の一方で、ライフワークは「人間の性行動」の研究という。「大学ではセックスについて研究したいと思って、高校2年の夏休みに全国の大学を回りましたね。同じ朝鮮人だからと朝鮮大学校にも見学に行きましたけど、『何が勉強したいの?』と聞かれて『セックスです』って答えたら、首根っこをつかまれてたたき出されました。『君のような人間は珍しい。がんばってくれたまえ』なーんて言われると思ったのにねえ(笑)」。キムにとって、「性解放」(あくまで彼が考えるところの、だが)と、「人間解放」は同列である。

彼の思想と行動は、京都時代に師事した在日朝鮮人一世、宋斗会(1915年−2002年)の影響抜きには語れない。1969年に国籍確認訴訟を提訴して敗訴、73年には法務省前で外登証を焼き捨てるなど「過激な行動」で知られた人物である。大学寮の同じフロアに暮らし、5年間にわたって薫陶を受けたという。日本人のみならず在日朝鮮人社会でも反発や誤解を招きやすい「私はいまも日本人である」との主張を前面に掲げ、「いまさら」感もある60年前の出来事を法廷で問うキムは、宋斗会に連なる異形/異端の系譜にある。

「いってみれば道化ですよね」。私がそう聞くと、即座に答えた。

「在日の間で日本国籍確認なんて主張はタブーでした。指紋押捺拒否のときだって、人権や差別だと言っている間はいいけども、『そもそも私たちは日本人ではないのか?』と提起するとみんなそっぽです。だから変人で有名だった宋斗会が最初にやったわけです。彼が外登証を燃やしたのもその文脈ですよ。この訴訟は奇人変人がやらないと仕方ないです。あのとき、日本が在日に国籍選択権を与えていれば、戦後補償の問題をここまで引っ張ることはなかったと思っています。その原点を問いたい」

包摂と排除の歴史

近代の発明である国籍を悪用し、日本は他者の包摂と排除を繰り返してきた。その「原点」は、少なくとも1910年にまでさかのぼって問わねばならない。植民地化で「日本人」にされた朝鮮人たちは、安価な労働力として経済構造の最底辺に組み込まれるだけでなく、皇軍の一員として侵略戦争の突端を担わされた。戦死・戦傷病者はおびただしい数にのぼる。空襲や原爆の被害も平等だった。

日本敗戦による解放後も、「依然として日本国籍を有する者」と規定される一方で、外地戸籍を理由に参政権を停止された。そして1947年5月2日──憲法施行の前日だ!──に昭和天皇最後の勅令「外国人登録令」が公布されると、「みなし外国人」として監視・管理の対象とされた。

日本人でありながら外国人という特殊な法的地位。字面だけを見れば、まるで「二重国籍」を先んじていたと思われかねないが、二重国籍が国民国家の相対化を内在しているのに対し、このときの措置は「解放民族」の封じ込めだった。日本人として日本の法律に服す義務を課し、外国人だから管理・監視に甘んじよという人権抑圧の言い訳である。

支配者の「ご都合主義」を利用してなされたのが、奪われた名前や言葉を取り戻そうと朝鮮人たちが始めた民族学校への弾圧だった。1946年末に朝鮮人の集団帰還が一段落すると、朝鮮人の定住が支配者にとって現実の懸念となる。国内に「少数民族」を抱えることを警戒したGHQ(連合国軍総司令部)と日本政府は、当時、初級学校で500校以上、5万人以上が通っていた朝鮮人学校をターゲットにする。手始めは1947年4月12日、自治体にむけた文部省学校教育局長の文書「朝鮮人児童の就学義務について」だった。朝鮮人は日本の義務教育に服すべきとするこの見解は、48年1月24日の通達「朝鮮人設立学校の取り扱いについて」でより強硬となり、同年と翌49年に強行された朝鮮人学校の強制閉鎖へとつながっていった。

「国籍喪失」はその3年後。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効で日本は主権を回復した。先立つ4月19日付の法務府民事局長通達が示した見解「サ条約の発効で朝鮮人の日本国籍は喪失する」が「常識」となり、このときをもって在日は事実上の無国籍とされた。1950年に「みなし日本人」を両親に生まれたキムも、何の了解もなく日本国籍を「剥奪」された。歴史的経緯を無視した暴挙だった。だからこそ政府は在日を「平和条約国籍離脱者」と定義し、いくつかの特例法を設けて一般外国人より「国民に近い」扱いをしたのだ(「在日特権を許さない市民の会」などが「在日特権」と非難する主要部分とはこのことである。だが、いったいこれのどこが「特権」なのか?)

あとは国籍の違いを理由にした排除のオンパレードだった。戦後立法、または復活した18の戦後補償法のうち、そもそも日本人以外が対象の2法と、被爆関連3法を除く13法は国籍を理由に外国籍者を排除した。また健康保険や年金、扶養手当、公共住宅にいたる社会保障の多くも外国籍者は門前払いだった。憲法に記された基本的人権から在日をパージする。流れ着く先は国外追放、「帰国事業」だった。立法、行政だけではない、人権の最後のであるはずの司法も、国籍を理由にした在日の恣意的な排除を是認した。

だがサ条約に記されているのは、連合国との戦争状態の終了と、日本国民の主権回復、そして占領地域と植民地に関するすべての権利と請求権の放棄だけである。「書いていないことを拡大解釈していいのか、それなら立法機関はいらない」とキムは言う。そして北方領土問題との不整合を指摘する。

「北方領土の占領について日本政府は、『サ条約に旧ソ連は参加(署名)しておらず、(日本が対旧ソ連間で放棄領土を示した)サ条約2条(c)項に北方四島は入っていない』といって、ロシアの不法占領を非難している。一方、サ条約には当時の南北政府も在日代表団も参加していないし、(対朝鮮の放棄領土を記した)2条(a)項に在日の国籍についての言及は一言もないのに、日本政府はそれを国籍喪失へと拡大解釈している。北方領土問題との整合性がない。ダブルスタンダードだ。あまりにご都合主義じゃないか。ここは日本の右翼も考えてほしいですよ(笑)

裁判での要求は日本国籍の確認と、「外国人として無権利状態にされてきた苦痛」に対する慰謝料と弁護士費用、計550万円の支払いである。だが法廷用語に翻訳されないキムの願いは単純である、「日本国籍なんか欲しくないが、捨てた覚えもない、ただ自己決定権が欲しい」。

1961年最高裁判決

国籍を協議していない条約は国籍喪失の根拠にはならない。1952年4月19日付の民事局長通達に依拠するならば、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とした憲法10条に違反する。これが原告側のロジックである。

実はこの主張は、最高裁で「決着」をみている。朝鮮人男性と結婚した日本人女性が外地戸籍に編入していたことを「理由」に日本国籍を剥奪されたのは憲法10条などに違反するとした訴訟の最高裁判決である。1961年、最高裁大法廷は「(サ条約は)朝鮮の独立を承認して、朝鮮に属すべき領土に対する主権(いわゆる領土主権)を放棄すると同時に、朝鮮に属すべき人に対する主権(いわゆる対人主権)も放棄することは疑いをいれない」として「平和条約によって、日本は朝鮮に属すべき人に対する主権を放棄した」と国籍剥奪を追認、その対象については、朝鮮戸籍(外地戸籍)に記載されている人、とした。

領土を保有する国が変わればそこにいる人の国籍は当然に変わる。だから日本国籍を失うのは自然であるとの理屈で最後まで押し切ってしまった判決である。人間は領土や戸籍の付属物と、司法の最高機関が宣言したのである。

「条約で決めたからいいじゃないか、領土が変わったらどちら(の国籍)が自然か? やっぱり朝鮮だよね、という薄っぺらな内容です。そこで実際に国籍を剥奪されている人々の不利益をまったく考慮していない。だからこの判決を見直させる意義があるわけです」。代理人のチャン・ハンニョン弁護士は語る。

つまり61年判決の根本的問題は、「想像力の欠如」にある。だから原告側は、国内立法なしのサ条約の直接適用可能性を前提とした最高裁の「人権意識」を問う。条約の直接適用性は「①明確性があり、②もっぱら国家間の関係を規律する条約ではなく、③当事国にその意思がある」という条件が必要とする岩沢雄司・東大法学部教授(国際法)の見解を援用し、支援団体「日本国籍のなしくずし剥奪を許さない会」は主張する。「サ条約2条(a)項の国籍剥奪に関する側面にこれを当てはめると、①国内で適用しようにも国籍については文言すらなく明確性はまったくなく、②条約は領域に間する規定であって、もっぱら国家間の関係を規律する条項にほかならず、③条約締結に際して国籍の議論はまったくなく、国内実施するための規定もない。当事国に剥奪の意思がなかったことは明白だ」

2008年最高裁判決

「見直し」にむけた追い風はあった。フィリピン人を母に生まれ、生後、日本人の父親に認知されたため、生後認知による国籍付与は両親の婚姻関係を条件とした「国籍法3条1項」に抵触するとして、日本国籍を拒否された子ども10人(当時8歳−14歳)が、日本政府を相手取り国籍の確認を求めた訴訟で、2008年6月、最高裁大法廷(島田仁郎長官)は、全員の日本国籍を認めた。争点となったのは、生後認知の場合は父母の婚姻を条件とした1984年の国籍法の規定が、「法の下の平等」を定めた憲法14条に照らして合憲か違憲かの判断だった。最高裁は「両親が結婚していないことを理由に国籍を与えないのは不合理な差別」として、3条1項を違憲としたのである。本人が選べない生まれによって権利格差が生じるのは不合理という、「血の通った」判断だった。それも「半分」日本人である原告たちの「血統」が裁判官の心を動かしたのだとはいえまいか。しかしながら「国籍という権利の重要性を鑑みて、通常の法律の解釈では想定されていないようなかたちで国籍を認めている。これは国籍というものの価値、重要性を認めたからこその判決」。この訴訟でも代理人を務めたチャン弁護士は語る。

最高裁が国籍を「権利のための権利」と認めた2008年最高裁大法廷判決と、そこを歯牙にもかけなかった半世紀前の最高裁判決、この二つの判決の落差は逆に、ひとつの期待だった。

思考停止の高裁判決

法衣に身を包んだ判事が時間どおりに入廷し、判決の読み上げが始まった。事件番号と「本件控訴を棄却する」ばかりが読み上げられていくかたわらで、キムはキョロキョロと廷内の様子を見ている。元号と数字、カナを組み合わせた事件番号が羅列され、何番目の判決が読み上げられているのかもわからなくなったころ、キムとチャン弁護士の名前が呼ばれた。キムは「やーっと呼ばれた!」と声を上げ、弾かれるように柵の向こうに入って着席した。

「主文、本件控訴を棄却する」

私がノートから顔を上げると、裁判長は微笑んでいた。笑顔で判決を読む裁判長など初めてだった。彼の目線の先には紅潮した顔に笑みを浮かべているキムの目があった。判決理由も省略され、読み上げは10秒たらずで終わった。

「裁判長は何で笑ってたんだと思いますか?」

「さあねぇ。『が何かいいこと言うとでも思ったの?』って言いたかったんじゃないの。『俺に聞かないで』って顔してたね。目が合ったから笑いあったの」。12番目だったのはおそらく、支援者の野次や不規則発言でその後の読み上げに支障をきたすことを懸念したのだろう。90年代から在日朝鮮人の人権問題をめぐる裁判を数々取材してきたが、その懸念は最近の法廷には当てはまらない。言い渡し後に法廷に満ちるのは罵声ではなく、むしろ乾いた笑いである。

高裁は61年最高裁判決を踏襲、憲法違反との主張をいずれも「恣意的ではない」「合理性を欠くとはいえない」などと退けた。思考停止はそれだけはない。同じくサ条約で主権放棄した台湾の場合、台湾人と結婚し外地戸籍に記載された日本人女性の日本国籍喪失は、日華平和条約発効(1952年8月5日)を待って行われた。一時的ではあれ、無国籍状態になるのを防ぐためだ。原告側はこの措置との整合性や、サ条約の国内適用可能性といった論点について主張したにもかかわらず、それらは無視された。

東京高裁の判決後、記者会見に臨むキムさんとチャン弁護士の写真

高裁も全面敗訴だったが悲壮感はない。「平社員(=地裁、高裁)が社長(最高裁)の言うことに文句はつけられないでしょう。最初から最高裁がターゲット、織り込み済みです」(キム)

「最初から最高裁がターゲットとはいえ、高裁は『判例があるから』と私たちが提起した新しい問題に答えること自体を放棄している。法の番人としての役目を自ら放棄したに等しい。これだと条約に何も書いていないことを裁判所が勝手にひねり出してむちゃくちゃ書いてもいいということになる。それで個人が不利益を被ろうがどうでもいいと、それを言い切る感覚には危険なものを感じざるをえない」。判決後、司法記者クラブでの記者会見でチャン弁護士は語った。

数社だけの閑散とした会見だった。事前に配った資料も読まれてないのか、まともな質問も出ない。明らかに苛立った様子のキムは「明日の新聞の見出しは決まった。『みこすり半判決』だ」「岩谷テンホーもまっ青!」などと連発し、生真面目そうな若い記者たちの顔をひきつらせていた。

国民国家を相対化する

日本国籍の押し付けによって対外侵略と人的資源の収奪を正当化し、敗戦後は補償もせずに放逐したこのくにの「戦後」。その「始まりの不正」から司法はまたも目をそらした。この国も一員である「国際社会」の総意によって「国籍を有する権利」がうたわれてから63年が経ったいまの現実である。歴史から何も学んでいないのだ。たとえば国籍剥奪の先進国を見ればいい、いかに浅薄とはいえ、国家元首がユダヤ人弾圧を謝罪した歴史があったからこそ、2010年、サルコジ政権(当時)が触法行為を犯したロマや移民のフランス国籍剥奪を打ち出したとき、国際人権団体のみならず国内からも「フランスを分裂させる暴挙」と批判が出たのだ(先の大統領選で政権の座を追われた彼の致命傷のひとつは、この排外政策への反発だった)。この国ではどうか? サ条約発効から60年目の節目を刻んだ今年でさえ、「国籍剥奪」の不当性を問うた記事を見ることはなかった。

日本国籍の確認を求める訴訟は最高裁という「本丸」に移る。一方で、キムは国籍それ自体には執着はない。朝鮮籍から韓国籍への切り替えも、「学生に国籍変更を見せるためにやった」ほどだ。「私は国籍と権利が結びつくあり方は疑問だし、国籍も嫌い。市民権で十分ですよ。多重国籍を認めて、Suicaみたいに国籍カードをいくつも持ち歩けばおもしろい。戸籍もそう。一人一個の不動なものなんて国家の刷り込みです」。キムにとってこれは、国民国家を相対化するための訴訟でもある。

なかむら いるそん


原典について


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公開日:2012年10月8日、最終更新日:2018年2月24日
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